磐船の神

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 植物よりも人間に身近な動物は、いつの時代も無数の変身、化身、神の試練の媒体となった。動物は、恐れられるにしても、愛されるにしても、ほとんどすべてが、様々な資格で聖化された。「動物は人間の本能と情念の生きたシンボルである。」どの人間にも、一匹の動物が眠っているとすれば、それは人が、どの動物にもなにか人間的なものと超人間的なものを認めているからである。

 動物ANIMALANIMUS「霊魂」)には、生命、本能、理性が付与されている。それは隠された真理の保持者であり、我々が考える世界を分け合う三界、つまり冥界、人間界、神界、の媒介者である。

 動物は様々な度合において、我々の神=悪魔的宿命の表象である。この二元的宿命は、人間の条件の往復運動を雄弁に物語っている。「動物シンボル事典」クレベール著より  

植物をはじめ様々生命は大地から育つので、大地を万物の母体とみなす考えは洋の東西を問わず一般化された概念である。そしてこの自然界と人との中間媒体とも言える位置に動物が存在している。南日(なんにち)()(みょう)によると、八幡宮の鳩、伊勢神宮の鶏、日吉神社の猿、気比神社の白鷺(しらさぎ)、春日神社・鹿島神社・厳島神社の鹿、熊野神社の(れい)()、熱田神社の鷺、二荒山神社のハチ、愛宕神社の猪、出雲大社・大神(おおみわ)神社の蛇、諏訪神社の烏と狐、()()神社のきじ、松尾神社の亀、三島神社の兎、天満宮の牛、祇園神社・住吉神社の烏、香椎神社のカササギなどがある。

 酷似する世界神話*古事記のイザナミとイザナギはギリシャ神話オルフェウス物語とよく似ている日本へはギリシャ・ローマと接点の強かった朝鮮半島の新羅と言われている。
 6~7世紀頃の東アジアは高句麗・百済・新羅の他に西暦562年滅亡した伽耶国があった。朝鮮半島南部に位置し“倭人”が住んでいたとされている、つまり倭人の国“倭国“であり天皇家の先祖の可能性が高い。

 また大陸から南下する騎馬民族に圧され、(ゆみ)(づきの)(きみ)に引きつられ秦氏が、新羅・伽耶から日本へ大量移民して来たのもこの頃である。

 ちなみに“倭”の字の意義は、中国人が日本人を呼んだ卑字である。委は「萎」「矮」に通じ萎える、とか矮小の意味である。後生、日本人が「倭」から「和」とか「日本」とゆう自称に切り替えた理由も、ここにある。八世紀以降、中国や朝鮮でも「倭」を「日本」と呼び換えるようになったが、日本人を罵る場合に「倭寇」「倭兵」「倭奴」と言う蔑称を用いる。

 秦氏は、巨丹(新疆ウイグル自地区ホータン)の生まれであると言われる弓月君が引き連れて三世紀に日本に渡来した氏族集団であり二一四年(応神十四)二一六年(応神十六)に渡来の記録が残されている。秦氏のルーツについては朝鮮の海を表す「ハタ・ハダ」が語源である。ただ此頃の日本列島は国としては未完成で秦氏の様な特殊技能を持った、人々は「帰化人」と言うより「渡来人」と呼ぶべきであると思われる。

 後に渡来人達は、大和朝廷からしかるべき地位を与えられ、それぞれの技能に応じた職業集団を作った。たとえば秦の始皇帝の子孫を自称する渡来人の秦氏は、秦の国の種族であると言う説、大秦(たいしん)(ローマ)から伝来した景教徒(キリスト教のネストリウス派)に関係していると云う説をもちながらいろいろな技術を持ち(はた)()を名乗り、また漢の劉邦の子孫を自称する集団は(あや)(うじ)と名乗った。ハタとかアヤという()みは、彼らが機織や綾錦の新技術を持ってきたことに由来する。ちなみに人名の服部をハットリとよむのは、古代のハタオリベ(機織部)の転訛が語源となっている。

 少し朝鮮方面へ目を向けて見ると、五世紀末から六世紀末にかけて伽耶諸国は、新羅と百済の手によって分割される形で滅んでいくことになる。文化の入り口であった伽耶国が滅ぶことは往来さえも困難になり日本と朝鮮の文化が次第に異なるものになっていく。  

百済が四七五年に熊津へ遷都したあと伽耶方面へ圧力を強めたため、日本の伽耶国への影響力は大きく後退した。五世紀末にも秦氏東漢(やまとのあや)氏の二個の有力な移住者の集団が日本に渡来している。秦氏は金官伽耶国、東漢氏は伽耶諸国の一つ安羅(あら)(こく)の有力者であったが彼らは百済の圧力を受け本拠地を捨てなければならなくなった。この両氏は日本文化に大いに寄与し、後に蘇我政権のささえてとなっていく。               

話を元へ戻すと朝鮮半島の三国のうち、百済・高句麗は地理的にも中国の影響が濃厚であったが新羅は中国の影響が皆無に近かったので独特の文化が発達している。朝鮮半島の古墳からローマングラス他の豪華なローマ設計エジプト製作の調度品が出土するのは新羅のみであり、前述の秦氏の渡来経緯からしてもシルクロード経由で持ち込まれたローマ文化およびシルクロードの文化が日本へ持ち込まれても不思議ではない、広隆寺の絨毯もシルクロードのソグド人の製作であるし、神話的な物語が基本的にギリシャ神話と日本神話に共通性があるのも納得のいく話だ。

 話は横道へそれるがシルクロードと言えば絹の道、交易を代表する命の道でもある。我が土佐においても命の道がある、それは塩の道とよばれる、いわゆる塩が運ばれた道だが一般の物資も運ばれた生活の道でもあった。やがて地域の幹線道路となって地域の地形や社会の環境に強く係わっていくことになる。日本においてそれら物資は川を遡り陸路をつたい運ばれることになる、わが国では地形環境の影響を受け太平洋側と日本海側の二つに分けることが出来る、また四国も太平洋側と瀬戸内側とに分けることになる。主として幹線路は海岸に沿う縦貫路に置かれるが、山脈を越え山を縫う横断路も重要な機能を持つことになる。

 それは物資のみならず言語・習慣・文化に影響をあたえ融合しながら、それぞれの地域で独特の文化を形成する担い手となっていく、さて移送の方法は担夫(たんぷ)・牛・馬・川舟などで行われていた。製造の風景は塩浜村において早朝からトンカンという浜(塩田)道具を修理する鍛冶屋の音から始まる、威勢のよい槌の響き、夜なべに曲げ物の修理や、みがき輪(曲げ物の竹輪)つけをする桶屋、昼下がりには女子(おなご)()が、(まき)()の袖口を巻き上げるように狭く仕立て、やっとお尻が隠れるぐらいの丈の短い(かすり)上張(うわっぱり)を着て腰から膝までは腰巻で覆い、さらに前掛けを下げ手足には手甲と脚絆をつけたいでたちで折笠を小脇に抱えて浜へ急ぐ姿。上荷差(うわにさし)(上荷船の船頭)が塩の大俵を軽々と担ぎ上げ、舟渡しのあゆみ板の上を調子つけて運び入れている・そんな風景が浜の一日である。浜は幾筋もの溝で仕切られ数え切れない程の台(沼井)が整然と並び、浜の片隅には、次の仕事を待つ馬鍬(まぐわ)柄振(えぶり)どのの小道具が整然と置かれている。浜男達は浜の地盤へ一三〇センチあまりある長柄の塩懸け杓で、手際よく海水を散布したり、先が幅広な寄せ柄振りで美しい縞模様を描きながら、かん砂(塩分の付着した砂)をかき集めたりする浜仕事、薄暗い釜屋の石釜でかん水が蒸気を充満させ恐ろしい程に泡を立てて煮えたぎらせている、そんな風景なのである。

 天正から慶長の年代四〇〇年程前には、今の香我美町岸本から吉川村にかけての海岸は一大製塩地であって、その塩田数は一八〇から二〇〇とも云われている、赤岡には塩市開かれこの塩を大忍庄の奥、別府峡辺りまで運んでいたのである、其れが各地域の産業と結びつき相互往来の往還道となり、七浦還道や日浦還道の名を残している、また現在も地名として残っている「塩」「シオタキ」「塩が峰」等の地名も塩と関係していると言われている。

当時の最大運搬機関として馬が使用され安全を祈願する馬頭観音が塩の道に沿って祭られている(七ヶ所)また大栃より奥に、別府の四ツ足峠、久保の韮生越え、笹アリラン峠の祖谷越えと三つの往還が四国山脈を越え命を守ったことから馬頭観音がまだあると思われる。今も残る史跡は馬頭観音・店屋跡・源太物語の源太坂・丁石・大比の大釜・天水田跡・見渡し地蔵他・木橋・休場坂・庄谷相地蔵堂・吉野御大師様・お大師岩・等がある。

 塩の製造は浜役夫達が行うが、その組織は頭・補佐役の下奉公・日雇(ひよう)(塩田労役夫)釜焚(釜の築造や煎ごう役)目代り(夜釜焚)浜子(婦人老幼者)先引となり、それぞれの業務が明確に分かれていた。

 この作業が入浜式であり、後に流下式に変わっていくことになる。さて販売方法だが海運で販売されるのを「沖売塩」陸上移送の販売を「岡売塩」という、特に内陸の移送は古い時代は山道や尾根道の高所を通ったため人牛・馬の背に頼らざるを得なかった。

 馬は古い時代から軍事のほかに「伝馬(でんま)」「(えき)()」として宿場間の「(つぎ)(うま)」「(つけ)(うま)」の短距離移送にもよく使われた。また塩にも品質面で「真塩(ましお)」「差塩(さしじお)」があり真塩は結晶塩を塩取籠に入れ苦汁分を滴下させた精製塩のこと、差塩は煎ゴウし結晶塩になる前の塩に苦汁分を加えてカンドを強くして漬物用や魚の塩蔵ようにする、この二つに品質が分かれていた。

 さて土佐の塩の道はどうだったのだろう、四国は屏風の様に横に連なる山々が背梁をなして瀬戸内と太平洋を結ぶ嶺線越えの交通障害になっていた、しかし平家落人伝説や宇多天皇の女御を母とする津部経高ゆかりの梼原など山深き村落が点在する。

 これら山里の人々は、焼畑の耕作や山仕事で生計を立てたが、自給の出来ない必需品は他藩領であろうと買いに行き、また在町の商人も荷物を担いで振り売りにきたのである。この商人達は(いっ)()商人と呼ばれ親しまれた、彼らこそ山道を開き瀬戸内と太平洋を結ぶ流通の立役者なのである。

 土佐の場合製塩法が瀬戸内の大規模な入浜式と違い小規模な揚浜式塩田が点在したにすぎなかった、しかしそれでも多くの努力が払われ赤岡二十一浜・前之浜十四浜・岸本十二浜・安喜浜十浜・唐ノ浜十七浜・羽根十五浜などの塩浜村がある、塩の取引地は赤岡・前之浜・宇佐・久礼・土佐中村があり輸送手段は川舟が四万十川のみ、人の背が久礼から梼原へ後は馬の背輸送がほとんどである。

 赤岡からは三ルートあり本山一ノ瀬・根曳土佐岩原・香我美大栃の各ルートがあった。

 塩の道の話が長くなってしまったが、もう少し“道”に関して記述しておかなければならない。

『田結の道』の著者・村上 誠氏によれば田結の道は、二脚の道・物の移動を最大の目的とした生活道としての古代道であり『延喜式』の駅制道とは異なる。駅制道は兵部省諸国駅伝馬条によると、大宝律令(702)を画期として本格的に全国設置の段階に入り、八世紀を通して体制が完成された情報の道である。                  

全国を五畿七道に分け重要性に応じて大路・中路・小路の三等級に分ける、大路は畿内と九州・大宰府の山陽道、中路は東海道と東山道、小路は南海道・西海道・山陰道・北陸道としている、そして駅家に置かれた駅馬は大路二十疋、中路十疋、小路五疋を原則に郡ごとに伝馬五疋が置かれた。駅馬は緊急を要する公用の報告・通達に使われ、伝馬は国司の赴任、公使の往来など定期的儀礼的な公用の旅に利用された。このことから、物の移動を目的とした古代道『田結の道』から平野部つまり稲の普及により開発された馬の道はまさに情報を運ぶ道へと一大転換したのだ。   しかし、この情報の道は律令制を推進するがゆえに厳しい規則に制約されての旅人にとって極めて迷惑な道だったに違いない、『続日本紀』(712)には食料持参の担架義務が軽減され、軽装の旅が可能になった。同時に貨幣経済の効用を実践させ、その普及に努めた、とあり貨幣は日本の最初の貨幣・和同開珎(708)を通貨とした。貨幣経済の効用を新しい道に求めた先人達の知恵には敬嘆する。

 だが旧来の道に比べ河川の多いこの道は渡船料や宿賃などの経済的負担、更には風水害による長期足止めなど、時間とむだ金の必要な道でもあった。

 現代において橋の利用は自由に方向を選ぶことが出来る手段の一つだが、古代において一本の川によって対岸が阻隔されることは、しばしばあったことなのだ『田結の道』が平野や海岸線を避け内陸部に道を求めた理由はそこにある、幹線道を分水界付近に貫き河川の両界に支路を伸ばせば大河の渡河は回避される、土佐においても古代の道は尾根づたいに形成されることが多く急峻な河川の流れ、橋も舟も無かった時代、道行は川幅の狭い分水界を辿った。

 古代の人々にとって、河口部の湿原は邪魔者で風水害の危険がある平野部は住みやすい場所ではなかった。稲作の普及により生業の手段として平野部に移住はするが、それでもなお湿原・平野は種々の制限があった。そのてん山は知恵と努力によって居住し易く出来たし旅舎としての岩屋も多く、高地では視界も広く天候や方位の把握にも都合がよかった。

 このように日本全国に広がる田結の道は、塩の道とも附合しながら各地域を網羅していく、南海道田結の道は別に述べることとし、話は渡来人・秦氏を考察する。

 秦氏の大移住については「日本書紀」の巻十で「弓月君が百済からやって来た。奏上して『私は私の国の、百二十県の人民を率いてやってきました。しかし新羅人が邪魔をしているので、みな加羅国に留まっています』と

いった。そこで葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を遣わして、弓月の民を加羅国に呼ばれた。しかし三年たっても襲津彦は帰ってこなかった」一県を一千人

として総計十二万人を三年かけて渡航し、はじめは九州北部に後は全国に広がって行った。

 さきにも述べたように秦氏は様々な技術をもたらしている九州・近畿の銅山から新羅系統の青銅技術を養蚕と絹織物の生産技術、芸術、算術、建築などが知られている。

 また秦氏が渡来した頃から日本の古墳が巨大化しており、十六代仁徳天皇陵は世界最大の墳墓である、ただしこの大山(だいせん)古墳は近年の

研究から被葬者不明となった。これは埴輪や須恵器の形式から推定した年代と「古事記」「日本書紀」が伝える歴代天皇の順番が合わないからである。ともあれ秦氏の先祖がシルクロードを移動しながら万里の長城や巨大建造物の建設をしていたとするなら建築・土木技術は極めて高度なものであったはずだ。

 全国に散らばった秦氏の集団の中で、京都葛野(かどの)今の嵯峨野に拠点を置いた秦氏は京都の荒地開墾による、今に残る京野菜つくりに成功したのみに留まらず信仰面でも多いにその功績を残す。全国の神社数十万社のうち、秦氏の神を祀る神社は八幡系四万社、稲荷系四万社、松尾、出石(いずし)等を加えて九万社つまり日本の神社とその信仰は大多数を秦氏が作ったのであり、特に京都の松尾大社は秦氏の氏神である。また彼らは多くの官人も輩出してはいるが、それよりも京都太秦を中心に農耕・機織での実力豪族であり商売人、専門家などのプロの集団であったのだ。

 商売の面から彼らは先にあげた稲荷をブランドイメージとし発展させていくが、呪術的な性質をもつ東寺の真言密教が加わり一体化することで飛躍的に成長し稲荷と伴に庶民文化に浸透していった。時代は遡るが聖徳太子時代の秦河勝は秦氏のカリスマだが六〇三年聖徳太子が仏像を得、それを河勝が奉斎した。これが今日の広隆寺である。この時期、秦氏は蘇我氏に従属しており外来系使節の翻訳仲介者や外国への使節として頻繁に働いている、稲荷山で荷田氏が信仰を握っていた時代は、農耕の神であったが秦氏が実権を握ってからは能動的な神に大変身するのである。秦氏の関連の姓は秦・畠・畑・端・波多・波田・羽田・八田・半田・矢田・原・畠山・畠川・波多野・畑中・服部・林・田村・依智高橋など多数ある。 

 稲荷神社を考える上で三つ組の構造がある
上社・中社・下社これは稲荷に限らず『古事記』にもある造化三神、天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神、そのほか華道の室町時代に育った東山文化で立華という型で天地人にたとえる法則的な理念、仏教の三界、欲界・色界・無色界、三種の神器としての鏡・剣・玉、道教では天帝・地祇・水神の「三官」。

 日本において「三度」は重大な行動原則を規定する想念である、三度目の正直・二度あることは三度ある・「三度」は強力なる呪力を発揮する。また中国の司馬遷も『数は一に始まり、十に終わり、三を乗除して成る』

 儒教、道教、仏教、神道、キリスト教、イスラム教の3は広大な広がりを見せる人間や生き物すべてを支配する根底的な原理なのだ。

 数字3は創造の法則をあらわす能動(+)受動(-)中和(0)に分類でき、天地人に匹敵、「陰」「陽」「中和」とし、体では頭腰胸に相当する。よって天地人の組み合わせ=創造の三つ組みは単独で機能する訳でなく実際には等級的な連鎖構造を持っていることを考えると判りやすい。生産や創造というのは、能動・受動・結果という三つのプロセスで進行するロジックで考えるのが古来の思想の根底にある。この連鎖が稲荷の基本構造になっているが、不思議なことにユダヤの神秘思想カバラでは、この古来思想を「ヤコブの梯子」「ゴールデン・スレッド」と呼ぶ、秦氏と共にやって来た稲荷思想の根底にはシルクロードを通して世界の思想と共通する考え方を持っている。

 豊穣なる神を祀る、またそうなって頂くに穀物の育成も人間の生殖行為も同一と考えられていた、男女の結合のイメージが多用される。柳田国男の『巫女考』では稲荷に限らず神社の巫女は娼も兼ねていたとしている。子供を生むという生殖行為は異なる意味での魔術的・呪術的・儀式的と言える性が活用されていた。その面で神社にはアイドル化された巫女が数多くおり、神社と芸能は結合していく。美形の巫女のことを「顔よき女体」と言うが稲荷山の人気巫女、阿小町(阿古町)は猿楽を舞う巫女で、その愛法があまりにも素晴らしく、それをまねた猿楽芝居もできた。

 この阿小町は個人名でなく稲荷山の巫女の総称であり、神降ろしの遊女だったのだ。京都では古くから芸能が盛んで平安時代から室町時代にかけて、神社で猿楽が行われていた。散楽(さんがく)・申楽とも書き物真似を中心とした滑稽芸から派生した猿の文字をあてたと言われるが世阿弥は伝書で猿楽は本来、神楽だから神の字の(つくり)を用いて申楽とするのが正しいとしている。内容はかなり露骨で性器を露出して叩いたり模造の男性器を挿入したりと激しかったようである。しかしそれは演じている巫女に狐が憑き神がかり状態になることを示す。

 稲荷神社の始祖の秦氏は大和猿楽の始祖でもあり秦姓を名乗る散楽戸で、猿舞も秦氏のものだったと云われる。奈良時代に中国大陸から散楽が移入されてきた頃の散楽は軽業や手品、物真似、曲芸などの芸能の総称でもあった。朝廷は散楽師の養成機関「散楽戸」を設けたが七八二年桓武天皇の代に廃止、散楽師たちは自由に寺社や街角で芸を披露する様になり他の芸能と融合して独自な芸能へと発展していくことになる。

 この秦氏が持ち込んだ散楽は、元を娼と巫女が一体化した古代バビロニアのイシュタルの巫女とかアポロンの巫女がいる、また古代ローマのビエスタの乙女、彼女達は純潔性を示すも天の力を受け取るためのものであり、阿小町と同様に儀式的性行為をし想像の中で神々と交わったと云われる、この共通性もシルクロードが大きな鍵を握る。

 次に稲荷のシンボルでもある狐!何故に狐なのか仏教系の稲荷である愛知県の豊川稲荷や岡山県の最上稲荷は、その大規模拠点であるが豊川稲荷は妙厳寺で千手観音を守護する為に茶き尼真天が祀られている。このダキニはヒンズー教ではシバ神の妃カーリーの仲間の女鬼の一人で人の心臓を食うと言われている、後に仏陀に帰依することで、人間の煩悩を食い尽くす善神となり大黒天の眷属に収まった。ダキニはもともと狐と関係なかったが、密教にダキニ呪法というものがあり狐憑きの俗信とともに広がっていった。

 狐は稲の豊作に関係する動物であり、大地母神との結びつきが深いが、そもそもヒンズーのダキニは人間くさい性愛や呪術などに関係していてインドの歴史の中でも大地母神から遊離してきた女神である。それゆえダキニと狐は仏教的に習合しながら一四世紀初期に結びつき稲荷=ダキニ天=狐の形を取って顕示し今の稲荷神社となった。

 またダキニはインドにおいてジャッカルがモデルとされる、それはダキニの心臓喰いは宗教的・哲学的に説明されるべきものであるがここでは物理的な移動によって様変わりしていくエジプトのアヌビス・インドのダキニ・日本の狐を見てみたいと思う。

 服部英二氏は日本とエジプト文明の多くの共通点を指摘、日本では穀霊は(いな)(だま)とし天皇は大嘗祭に稲霊の祖霊を受け継ぐことにより皇位を継承する。太陽神ホルスは母イシスの穀霊による懐胎が神々に認められたことにより王位を継承、日本神話では太陽神アマテラスは明らかに田を作る神、弟のスサノウは暴風の荒神とし、エジプト神話ではオリシス・セト・イシス・ネプチュスは兄弟姉妹にして二組の夫婦、オリシスが穀霊ならセトは暴風(ギリシャではチュポンtyphon=台風のこと)セトによる嵐のあとイシスの治癒力により緑が甦り母なるナイルと共にあるのがネプチュスの物語である。

 服部はエジプトと日本の思想・文化の共通点として、神々の集合、太陽崇拝、共通の親王観、王しか入れない至聖所、水に対する神聖視、兄妹婚、創世神話に水が出てくること、隠り身の神、アニミズム、彼岸思想、三途の川の光景の類似、自然に逆らわない文明、神の両義性、循環型の文明、真善美の一体化などをあげている。まさに西アジアの端にあるエジプトの文明が東アジアの端にある日本にどうやって伝わって来たのだろう?シルクロードの起源は海の交易に関しては紀元前二〇〇〇年以上に遡る、また陸の交易はエジプトから北に延びる「ラピスラズリの道」絹製品の交易から前三〇〇~五〇〇年には中国への道があったことを示す。

 シルクロードはユーラシア全域を東西に結んだ交易ネットワークであり文化の対話の道でもあったが十六世紀にヨーロッパの国々が進入することによりこの道が分断されることになり、これによりシルクロードはその機能を失うことになる、国家意識が強まった段階で国を越えた協力体制は破壊され表の文化から消えていった。十六世紀以前、ギリシャが東洋に結びつき東洋の工芸はヨーロッパ・アフリカに伝わり、ギリシャ神話の神々のいくつかは仏教の種々の仏になり、ヘラクレスは金剛神になった。中国の絹・紙・陶器は西伝しペルシャの工芸品・銀製品・ガラス器・インドの絵画・音楽・暦法・医学・音韻・仏教イランのゾロアスター教・マニ教などが東伝した道だった。日本の法隆寺にもソグド文字で焼印された香木が残されており日本列島もシルクロードに繋がっていたことが分かる。

 シルクロードとホータンからやって来た、弓月君この全体像を摑むための考察にチャレンジしてみよう。先年NHKの「シルクロード」の番組で楼蘭王国を訪ねて、と言うのがあった。地理的な感覚を把握するため楼蘭を中心に説明する。

 中国の西域にタリム盆地(タクラマカン砂漠)がある北に天山山脈、西にパミール高原、南西にヒンドウークシュ山脈、南に崑崙山脈、南東にアルティン山脈に囲まれた広大な地域で西に頭を向けた魚の形をしている。楼蘭はその魚の尻尾の付け根のあたりにある、

 楼蘭という国名が中国の歴史書に現れるのは『史記』の「匈奴列伝」が最初である。その列伝中に、匈奴の(ぼく)(とつ)(ぜん)()が前一七六年に漢の考文帝に宛てた手紙の中にでてくる。単干とは匈奴の最高君主のことで、その内容は月氏(引弓之民)を滅ぼし楼蘭・烏孫(うそん)呼掲(こけつ)およびその近辺の二六国を平定した。とする内容である、冒頓は二代目の単干で匈奴を全盛期に導いた英雄でもある、実際の内容は少し違うようであるが、意とするところは自らの力を誇示しようとしたものである。 

 「引弓之民」は、弓矢を武器に遊牧狩猟の生活を営む民族で、匈奴とさほど変わらぬ民族とも思えるが考文帝から匈奴への手紙の中では「引弓之国」を長城以北にあって単干の管理下の国とし「冠帯之室」とし皇帝の支配下にあるとして呼び方が逆転している。実際に匈奴も月氏も烏孫も呼掲も中央アジアのスッテプ地帯を活動の場とした遊牧民であったことにちがいない。

 匈奴の英雄冒頓単干は実父を殺害し、その頂点に達した、そして強大化してゆく同じ遊牧民である月氏は彼らによって従来いた地域を弾き出され(前一七七)大月氏として天山山脈の北側イリ川の辺りまで、また小月氏としてタリム盆地南東側の山間部のチベット族のところに移住することになる。この中央アジアにおける玉突き現象のありさまをまとめてみると次の様になる。

 匈奴によってモンゴル高原をはじき出されたのは月氏、それが西へ移動し河西回廊の西部に至る。先にその地域を支配していたのは烏孫であったが、はじかれた烏孫は西に移動してイリ川あたりへ移動する。単干がさらに月氏を追いやり、この時に大月氏と小月氏に分かれる。大月氏はイリ川流域の烏孫のいる土地に移動する。烏孫はこの時匈奴に併合される、老上単干がさらに月氏を西南へと追いやる大月氏はシルダリヤの上流へと移動、烏孫はこの時もとの土地にもどる。

 この移動によってシルダリヤの中流域にいたサカ族の一部はガンダーラ地方へと移動す、また一部のサカ族はギリシャ人のバクトリア王国を攻撃することになる。大月氏は彼らのあとを追うようにして移動している、要は楼蘭を基点としてタクラマカン砂漠を中心に時計廻りと逆に移動している感覚としては楼蘭を二時方向とすると最終的に六時方向にまで移動したことになる。 

 では小月氏はどうしたのであろうか?匈奴の追い込みによって分断された彼らは丁度万里の長城に隠れるように東へと逃れ漢に彼らの技術力で貢献しながら、また沢山の知識を
吸収しながら更に東へと進み、今の朝鮮半島の果てまでやってくるのである。まさにこの間五百年の歳月をかけ遊牧民らしく色々な伝説を抱き込み伽耶国を建設し秦の始皇帝の子孫の(はた)()、漢の劉邦の子としての(あや)(うじ)を名乗ることになるのである。

 当時の朝鮮半島はあくまでも中国の一部の国としての感覚が強く、やがて力をつけて来た新羅・百済によって伽耶国の秦氏らは、この国をも逃れ日本にやって来たのである。

 しかし彼らの実力は前述したように、凄まじいものがあり、日本国と称していいかは分からない混沌とした時代に、あらゆる産業分野で日本の基礎を創った人々なのである。



続く・・・



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