武市瑞山

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ぎらぎらと照りつける太陽。
ミンミンジージーと騒音を地面に落とす蝉たち。
どこまでもどこまでも青い空。
空のはしっこからもくもく湧き上がる入道雲。
土佐の地も夏本番を迎えた。
昨今の龍馬ブームにのり、私もまだ行ってない史跡を廻ってみようと暑い中、車を走らせた。
まわりをみると県外No.の車ばかり。
まっこと感謝ぜよ!!

   
武市瑞山旧邸


今回は武市さんの生家、二十歳の頃までいた
南国市稲生と高知市仁井田の東の端は吹井の御実家に伺った。
ここも観光の人々で結構な賑わいだ。

   


半平太は幼名を鹿衛、諱を小楯という。
名付け親は母、鉄の妹、菊のご主人、国学者は鹿持雅澄(「万葉集古義」141巻、寛政3年(1791年5月29日)―安政5年(1858年9月25日))で、幼少の頃より剣術を千頭伝四朗、麻田勘七、江戸では桃井春蔵に鏡新明智流で『位の桃井』と呼ばれた、江戸三大道場の一つで修業、士学館の師範にまでなったのだから武市さんも,ただの人ではないのだろう。
また、習字を9才より島崎七助、11才で徳永千規につき和漢文の素読・また絵を学び、砲術にいたるまで勉学に励んでいる。
半平太が絵を描くことを忘れなかったのは、やはり基礎をしっかり学んでいるからだと思う。

   
瑞山神社


1849年8月1日に父、9月8日に母と相次いで亡くした半平太は、1849年11月、天保元年(1830年)生まれのお城下の田渕郷士(今の桜井町)島村源次郎の長女、富子と婚姻あいととのい、12月19日、医師、楠瀬春斎を媒酌人として結婚。
安政元年剣道免許皆伝を受けたのを契機に、妻、富子の叔父、島村寿之助と協力し、新町田渕に道場を開く。
この写真の石碑の奥の白い建物が道場のあった場所である。
安政2年漢庁より田野町出張、剣道教授の命を受け8月7日〜9月4日まで田野滞在。
この時、中岡慎太郎を鍛え、縁がつながり
慎太郎と土佐勤王党との接点がここに出来上がった。

そして、安政4年には江戸剣術修行で桃井春蔵の道場の塾頭にまでのぼりつめる。
時に半平太29才の時である。
武市瑞山道場跡   



この江戸の剣術修行時に吉田松蔭らの影響を受け、土佐勤王党の結成へとつながってゆく。
あとはNHKの大河ドラマなりにはなるが、土佐藩をして大政奉還を目指していたのだが、土佐藩の上士、下士のよんどころ無い事情で土佐勤王党への弾圧へと突き進むのである。


半平太の殉節の地は今の帯屋町商店街の西のはずれ、四国銀行の建物の北東角にある。
幕末の昔、ここは南会所の大広庭の北東の隅にあたり、先だって歴史民族資料館の展示にその様子の資料があったが、武市さんは、後藤象二郎らを前にして、三文字腹を切り、従容死した。
この三回にわたり自分の腹を切り裂いたのは日本広しといえど、武市さんただ一人ちや!!
それに、このとき武市さんは一年半に及ぶ牢獄の生活を余儀なくされておりとても切腹できる状態でないのにもかかわらず完遂したということは…

   
武市瑞山殉節の地


彼の壮絶なる想い…”この日本をどうにかせないかんちや”が、そうさせたのだろう。
この一言に尽きるのではないかと思う。
それに、この切腹に立ち会った武市さんの親戚の人物は、その壮絶さに一生涯に渡って顔面神経痛が直らなかったそうである。
世が世であれば、彼は今でいう日本の総帥になっていたであろうと謂われる。
実に残念な死である。


明治の世になり、後藤象二郎、板垣退助は武市さんの妻、富さんに会い、切腹の件は誤りであったとして陳謝している。


暑い暑い夏の日、地面にたたき付ける様な蝉の声は武市さんの殉節の石碑にも、その悲しみにも似た泣き声を落とし続けていた。

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