岩崎家は遠祖は甲斐源氏の武田氏に由来し鎌倉自体の初め武田信隆が甲斐国山梨郡(東八代郡)岩崎村居住により岩崎姓を名乗ったのが最初のようである。

その子孫はやがて阿波国へ渡り、土佐国へやって来たとき安芸の国虎に仕えていたが国虎は長宗我部元親の家臣となったのである。元親自身が長野からやって来たことを考え合わせるとなんらかの繋がりがあったと考えて不思議ではないように思える。

 その後長宗我部も終焉を向かえ代わった山内一豊の入国により浪人となる、やがて子孫が「郷士株」を買い郷士となった。宝永元年(1704)岩崎弥兵衛から数えて七代目の弥三郎はその豪飲揮カク(酒と博打)により「郷士株」を売却「地下浪人【じげろうにん】」となった。

この地下浪人と云うは長く郷士職にあったものが、その株を譲り浪人になった場合の呼称で苗字帯刀は許され田畑はあっても直接貧乏暮らしに直結しない。八代目の弥太郎の父弥次郎も飲んべで体言壮語はするものの小作人の面倒見はよく剛直であった。母親の美和は安芸浦西の浜の町医者、小野敬蔵の娘として生まれ意志が強く聡明で働き者であった、美和の長兄順吉、次兄篤治も医者である。弥太郎への教育としては申し分のない環境にあったと言える。また井ノ口村の岩崎家は三家に分かれる本家の父は無益の浪人であったが、

分家1 岩崎寅之助の父は酒と博打の七代目弥三郎の弟弥助であり納所役【なっしょやく】(庄屋に次ぐ顔役)を務めるかたわら、「
峴山【けんざん】」と称する儒学者でもあり本家の直ぐ近くで「秋香村舎」塾を開いていた。

分家2 岩崎鉄吾は老役【としよりやく】を務め息子の馬之助も弥太郎と同じく「秋香村舎」へ通っていた。この馬之助は12,3才の頃に藩校「教授館」より賞を賜る。この賞を受けた人物に細川潤次郎(のちの司法大輔・貴族飲副議長・学習院院長・文学博士となった人物)間崎哲馬らがおり馬之助と合わせて「土佐の三神童」と呼ばれる。のちに岩崎馬之助は江戸で
安積艮斎【あさかごんさい】の門下の塾頭になり、その秀才ぶりを発揮することになる。
 
中央の空き地が秋香村舎の跡地


 一方弥太郎は、彼が12才のとき母親方の祖父、小野慶蔵の元に通い勉学に励みつつ
小牧米山【こまきめいさん】秉館【へいかん】」へも通い更に勉学に没頭することになる。秉館【へいかん】とは、人の常道をとり守るの意がある。弥太郎も馬之助もここでかなり勉強に励んだようで、米山曰く読書力は馬之助(温厚で真面目な秀才)詩才は弥太郎(詩人肌の情熱家、腕白小僧の悪太郎)と評している。

 ここまでが弥太郎の少年期の概要で色々な文献から引用した部分が多いが、過日や太郎の生家である安芸、井ノ口村を訪ねてみた。

国道55号線を東進しながら安芸のタイガース球場?を右手に見る、今年のタイガースは妙に弱いなんでじゃろ!と思いつつすぐ次の信号を安芸病院方面に左に折れる。この信号から井ノ口村まで約3キロなのだが、北へ進む一つ目の橋の手前を西へ行くと浄貞寺に行き当たる。

ここは長宗我部の戦いに敗れた安芸国虎が死地と選んだ寺なのだ。浄貞寺は今の南国市は国府、比江の永源寺の末寺で国虎の祖父備後守元親が創立したもの、安芸氏は壬申の乱(672)で土佐に流された蘇我赤兄(あかえ)を祖としている。壬申の乱は天智天皇(中大兄皇子)が起こした大化の改新より27年後、その子である大友皇子と天智の弟の大海人皇子との継承争いの乱で、赤兄は大友皇子側についていたため敗れて土佐の地へ流されたもの。
 
 浄貞寺


その浄貞寺の中へ入ると国虎が切腹の際、太刀を清めた井戸があり、さらに奥には安芸一族が静かに眠る墓所がある。国虎は家臣の命を救うことを条件にこの地で自刃した弥太郎の先祖もこのことにより生き延びたのだ。
   
太刀洗の池   国虎の墓


 大分横道にそれてしまった、井ノ口村に進路を戻し狭くなったり広くなったりの県道をごぞごぞと進む「岩崎弥太郎生家」の標識が見え右折、県道を挟むように立ち並ぶ家々から開放される、目前には初夏の緑に覆われた田圃が広大な絨毯【じゅうたん】のように見える、左折して駐車場についた。

 車から降りると大きな椋【むく】の木が迎えてくれる、風に吹かれて葉っぱが擦れあい「よー来たねや!」と言っているかのようだ。生垣は笹竹を組んだような面白い作りになっている、その生垣のうちら側にこれまた大きいせんだんの木が3本古名はオウチ、佐々木信綱の”夏は来ぬ”の歌詞に出てくるオウチはこのせんだんの木のこと、春には薄紫のかわいい小さな花を房状に集めこの大きくなった千檀のあちらこちらに咲かせることになる、弥太郎のこんまい頃はまだ千檀の木も小さかったとおもうが、門をくぐると質素な茅葺の家、左横には家より高そうな石碑、後ろ側には白壁の立派な蔵がなんとも不釣合いな感じだ。
 
 椋の木

 
 弥太郎 石碑

 これらの建物を囲むように低い塀があったので生家としてはこんなものかと、ひとしきり感心して帰ろうとした時、椋の木から突然ヨタヨタと一人のご老人が現れた「おんちゃん、すみません!ひょっと弥太郎さんの生家を案内してくれませんろーか」寡黙なおんちゃんはにこにこして「ついてきーや」…と言ったままヨタヨタと歩き出した。当然私もヨタヨタと着いて行く。

 
 弥太郎 旧家

白壁の土蔵の外側に張り巡らされた土塀を、くだんのおんちゃんは土塀の隙間をスルリと抜けて乱立する梅の木々の中へ、覆い茂る葉っぱをゆるりと避けながら進む。突然視界が開ける目の前には覆いかぶさるようにして巨大な千檀の木がその根元にお社風にも見える祠が二つそれらを取り囲むようにして左側に杉、その後ろに榎木、右側には前後してこれまた巨大な楠木が二本そして、この祠の護り人のようなご老人がまた一人。
 
 せんだんの木

案内してくれたくだんのおんちゃんが口を開いた「この人に聞いてみいや」私のお礼の言葉を聞く風でもなく、おんちゃんは近くの鶏小屋から平たくなったダンボールを所在なげに千檀の木陰に敷いてその上へゴロリそのまま眠ってしまった。

「すみません私、岩崎弥太郎さんのことについて、色々お聞きしたいのですが…」くだんのおんちゃんに代わって護り人のご老人は「分かることやったら何でも」と答えてくれた。

このご老人名前を小谷 勤さんと言いご先祖は岩崎弥太郎が明治の昔、企業的にも成功しこの井ノ口村の田畑を買い集め、なんと井ノ口村の3キロ南,今の国道に至る広大な田畑まで買った豪農となったそうで、その管理を任されたのが小谷さんのご先祖ということになるらしい。
 
 小谷 勤さん


勤さんで4代目で今は昭和22年の農地改革で全て解体され今あるのは、この記念碑ともいえる1200坪の土地と茅葺の粗末な家と曲家風の蔵と巨大な木々があるのみとなっている。

この土地の普段の管理は勤さんがしている持ち主は当然、岩崎本家で建物の修繕などは三菱がしているとのことだった。ということは、この家は個人のもので、つまり観光的に入ってきた私は不法侵入者ということになるのだが…私が立っている正面の立派な祠は岩崎家のもので弥太郎さんが52歳の若さで死んだので母親の美和さんがご先祖の五輪塔の一番上の空輪を持って祀ったものだそうだ。

また左手の祠は岩崎家が1200坪の敷地にするにあたり隣接していた福留家から土地を譲り受けたときに礼を尽くして福留家のご先祖を祀ったものだそうだ、また南をむくと曲家風の蔵が見える東西に位置する蔵は明治19年弥太郎が亡くなった翌年に完成したとのこと直角に曲がった南北の蔵は明治29年に増築、当時この蔵に一俵60kgの米俵が屋根裏まで積まれていたというからその隆盛ぶりは推して知るべしというところか。
 
 写真の中央が弥太郎邸、右側奥の小山が墓所


この岩崎のお屋敷のすぐ北西(北ノ木)の小山に弥太郎の父母より以前の墓所があり、また北に2.8km昔からある道をそのまま舗装したような狭い田舎道を行くと閑慶院に行き当たる、岩崎家の菩提寺で禅宗は曹洞宗のお寺だ、まさに長閑で緑の濃い静かなところだ
 
 閑慶院


またお屋敷の南の道を挟んだトタン葺きの小屋の南には分家1で紹介した叔父、峴山の「秋香村舎」があったようで、20~30m西へ行くと南へ入る道がある、そこには馬之助の生家があったようだが先年ご子孫のひとりが亡くなり、空き地となり人手に渡った、人知れず歴史の片隅に当時活躍した人の足跡が埋もれていくのは、なんとも寂しい限りである。
 
 妙見山登山案内板


そこから更に西へ県道を挟んで妙見山への登山口がある、この妙見山は安芸市民方々の霊山ともなっており霊験新たかなる山なのだ頂上にある星神社まで標高448mふつうの方なら約一時間程で辿り着けるのだが、膝にガタの来た私の足では登山はとても無理なのでズルをして車で行ける道を選んだ。
 
 星神社の鳥居


車で行くには元へ少し戻って例のタイガース球場の入り口から登ることになる、星神社まで6.7km約25分かかる、途中には松林あり羊歯の群生もみられ周りから聞こえてくるのは小鳥の声と風の音だけ何か祈りを捧げたり願い事をするにはもってこいの雰囲気になって来た。
 
 星神社本殿

妙見山への曲がりくねった道もやっと終わり頂上近くの駐車場らしき広っぱへ着いた、車を降りたがさっぱり方角が分からない回りは高い木立で囲まれている、よく見ると鬱蒼とした木々に囲まれ頼りなげな、しかしそれでいて心して入って来られよと言いたげな鳥居がそこにいた。私の足は薄暗い木立の鳥居の中へ吸い込まれて行った、少しすると巨木となった杉の根っこがあっちこっちに地表に俺はここにいるんだとばかりに盛り上がっている。

阿吽の狛犬の前で邪気を祓い星神社の鳥居を潜って階段を上がり拝殿へ、失礼ながらボロ小屋の補修のごとく板切れが貼り付けてある、よく見ると沢山の文字が…なるほどこれが弥太郎さんが
   「男子、志ヲ立テ郷関ヲイズ
              志、若シ成ラズンバ死ストモ帰ラジ
    後日 英名ヲ天下ニ轟カサザレバ
              再ビ帰リテ此ノ山ニ登ラジ」
と板切れに大書して貼り付けたと謂われる拝殿なのか、文章を思い起こしながら、弥太郎さんは漢詩が好きだったから松尾芭蕉が李白の漢詩をシタシキにして奥の細道の冒頭の文を考え出したように、
釈月性の「将に東遊せんとして壁に題す」が浮かんできた
   「男児 志ヲ立テテ郷関ヲ出ズ
        学 若シ成ル無クンバ 復タ還ラズ
    骨ヲ埋ムル、何ゾ期セン墳墓ノ地
         人間到ル処、青山有り」

小谷さんに聞き忘れたことがあったので弥太郎さんちへ舞い戻った
例の椋の木の下に、時代を錯誤したような着物を着た少年が一人椋の木を見上げている。近くへ寄ってみると、くだんのおんちゃんに似た少年が窮屈そうな帯びが胸元までずり上がっているのも気にせず、さかんに椋の木に向かって大きな声を張り上げている。

「やたろーさーちっとは広(ひろー)になったかえ~」
「馬やん!いかんちや!ちっとバー高(たこー)にあがったち、ぜんぜん変わりなしじゃ」
声だけの主は椋の木の中にいるらしい、覆い茂っている椋の葉っぱがごぞごぞと縦に横に動き出した、椋の木が異物を排泄するかのように、またバキボキと苦しげな音をたてながら下へ移動してくる

ニュウーと出てきた足は一番下の太い枝を捕まえた、次に手と頭が出てきて太い枝に一回転してぶら下がった。少年はブラブラしながら未練そうに木漏れ日から見えてくる空を見て大きくため息をついたと思ったら柿の実が突然落下するがごとく地表に吸い込まれて壊れた組織が再生するかのように、また元の少年にもどった。

「馬やん!いよいよ空が狭いねや、なんぼ登ったち広(ひろー)にならんぜよ」
「そんなこと言うたち、そりゃ無理で!」
再生少年の言うにはこの安芸の空は海がわを除いて東西北側は山に囲まれて狭く感じるらしく、彼の弾ける様な体と心には、この地がどうも窮屈らしいことが分かってきだした。

「馬やン!鉄砲水の出た作業場へ行こうぜ」
「やたろーさー!また怒られるき、止めちょこや、お願いやき」
「えいき!いくぜよ」
再生少年は有無を言わさずズンズン安芸川の上流むけて歩き出した。しかたなしに馬やン少年は、暴力馬子に力ずくで引っ張られる馬のごとくトボトボあるきだした。

安芸市内には西に安芸川、東に伊尾木川がありそれぞれ市内中央に寄り集まるごとく流れてきて土佐湾に注いでいる。弥太郎さんちは安芸川のほうで井ノ口村は中流に位置する、水源は五位ヶ森
(1185m)で栃の木で尾川川と合流する、急峻な山あいから流れ出る谷川の水は数知れず、一雨降れば濁流となり土石流の危険性が増す、”やたろーさー”が腕白の時代はまだ灌漑治水が上手く成されておらず、しばしば流出した土砂に悩まされていた。

村人は総出でこの土砂を取り除きに係らざるを得なかった、ただ男性と女性の作業内容は当然のごとく違っており女性ばかり集団で
作業をすすめていた、と言うのも彼女達は着物の裾を巻くしあげ帯のところで留め、腰から下は肌襦袢だけになってをり、今と違って下着などというものは身に着けてないのである。よってそのような格好で男性の前に出ることは、もちろん「おおの!恥ずかしいちや」と言うことになるのである。

”やたろーさ”は高く積まれた土砂に隠れるようにして、その女性集団に近づいて行った、女性達は竹で編んだソウケのような物にゴロゴロした石や折れて千切れた木切れを入れては後ずさりし、また入れては腰を高く上げた状態で後退を繰り返していた。
「馬やン,見よれよ!」
「止めんかえ?」の声もぜんぜん耳に入らずと言うより、こうと決めたらもうこの少年はその行動は自分自身でも自制がきかんらしい。

少年は猛然とその女性集団の高く上げた尻に向かって走り出した。
「えい!えい!えい!」
三人の女性の腰巻きが捲り上げられた。
「いやちや!!誰ぞね」少年はアッカンベ~をしてすでに逃げ出している、その速いこと凄い脚力だ
「また、あの悪たれ小僧かね…」
どうも彼は今で言うスカートめくりの常習犯なのだ。

「待ってや~!やたろーさ」
「見たかや、馬やん」
「……」馬やンはそのことに関しては嬉しがっている様子だが後でまた小言を言われることを思うと複雑な気持ちのようである。
「秋香村舎へいこうぜ、馬やン」
この気持ちの切り替わりの早さ、その脚力の強さ、集中力の凄さ
少年時代から培われてきたものが、やがて来るべき将来にすべて必要だったのであろう。

私は、ボーとして椋の木を見上げていた、映像が今見てきたように浮かんでくる…ポンと肩を叩かれた、はっとして我に返った。
くだんのおんちゃんが横に立っている。
「見えたかよ!ほならねや」
なにを思わず、深々と頭を下げありがとうございましたと言ってしまった。頭を上げた時、おんちゃんは椋の木の中に消えてしまった。



一方の坂本龍馬は、広谷喜十郎先生によると、少年時代の評判は、あまりかんばしいものではなかった。少年時代は寝小便たれの泣き虫小僧であって、十歳の頃になっても「坂本の鼻たれ」と馬鹿にされ、けんか一つできないひ弱い少年だったと言う。
しかし、昔の子供は鼻たれが多かったし、変な夢を見て寝小便をしてしまい、腕力の強いものからなぐられ涙を流す泣き虫小僧が結構いた。そのため、龍馬も当初はそこらで見かけた普通の子供だったように思われる。


坂本龍馬は、武市瑞山や間崎滄浪らのように、エリート教育を受けていなかったので、劣等感はあった筈である。その劣等感を克服するために、やがて剣の修行に打ち込むことによって頑張ったと言える。
また、坂本家は、家学としての伝統をもつ家柄に育っていたので、独学ながら、学問に対する向上心があったことが、龍馬の手紙を読めばよくわかる。
龍馬は、自分の劣等感を意識していたので、自分以外のすべての人々が師匠であると思い、他人の言うことを真剣になって聞く耳を持っていた。 そのため、女性に対して心優しい手紙を書くことができ、非常に思いやりのある人間だったのである。

坂本龍馬がたくましい青年になるためのきっかけは、十四歳のとき、高知城下築屋敷の日根野弁治に師事して小栗流剣術を修行してからのことである。
小栗流の日根野氏は和術(やわら)を主にして、そのほか柳生流の剣法、居合い、槍法、騎射、長刀などの武芸を教えていた。 土居楠五郎は日根野道場で師範代として龍馬を指導したが、龍馬は練習熱心でやられてもやられても師匠に繰り返し何回もかかってくるので閉口したと後に証言している。
このようにして、学問でエリート教育を受けなかったという龍馬の劣等感は、武芸によって克服され、人間的に成長していくのであった。

坂本龍馬は嘉永六年三月、十九歳のときに「小栗流和兵法事目録」を伝授され、翌年閏七月に「小栗流和兵法十二箇条」と「同二十五箇条」を伝授されている。
そして二十七歳で土佐勤王党に参加した年の十月に「小栗流和兵法三箇条」を伝授されている。
その間に二度も江戸へでて剣術修行をしているし、佐久間象山について砲術を学んでいる。 二十五歳の時に高知城下郊外中須賀村の徳弘孝蔵について砲術修行をしている。

坂本家は商家の流れをくむ家柄とはいえ、学問を尊ぶ伝統を持っていた。 それだからこそ、龍馬が江戸へ剣術修行に行く時、父親は龍馬に三箇条の「修行心得」を書き与えているし、龍馬の方はこの心得書を紙に包んで肌身離さず大事にしていたという。
やがて、龍馬は天下に大きくはばたいていくのであるが、その根元には父親の厳しさと姉乙女の愛情の深さに包まれて育っており、たくましく、優しさを一杯に身をつけた青年龍馬となるのである。
また、土佐の海、北山の山々や清流の鏡川などの環境が自然児龍馬を育てたことを忘れてはならないだろう。

さて、龍馬の修行した小栗流だが、その小栗流の流れをくむものに香美郡香我美町山北浅上王子宮の棒踊りがある。
山北の浅上王子宮で十一月十八日の秋季大祭に奉納している。演じるのはすべて山北地区の青年たち、白の上着に白鉢巻き、白袴、見るからに精かんないでたちで登場。
長さ約二メートル、重さ一キロの棒を打つ、胸には山内家の定紋、三柏、それが山内家とのゆかりを表わす。
『二十人棒』と『小棒』があり、前者は二十人が二手に分かれ、歌いながら踊る。 棒が振られ、一つ一つの動作ごとに型をピシッと決める。
『小棒』の方は一対一。『ひし』、『つき』、『花』、『飛び』、『面切り』の五種類がある。

六尺棒が激しくぶつかり合う音に、きびしい気合いが感じられる。それに、二人が組み合ったまま、車のように転がっていく『車返し』の業には、小栗流の和術を見る思いがするという。
坂本龍馬は棒踊りのような、はげしい修行をしたにちがいない。

龍馬は、父親のきびしさと、乙女姉さんの愛情の深さに包まれて、たくましく、それに優しさをいっぱいに身に着けた青年龍馬となった。
さらに、坂本家の家学とも言うべき和歌の道などに興味を持ち、画人河田小龍や徳弘董斎らから洋学の手ほどきを受けている。
その頃、ジョン万次郎の漂流談を読み、大いに啓発された話は有名である。

文久元年に武市瑞山の率いる土佐勤王党に参加したものの、いち早く観念的な尊皇攘夷論から脱却して現実的な考え方を身につけ、二十八歳の時に土佐藩を脱藩して封建的な枠組みを否定した。
そして、龍馬は勝海舟との素晴らしい出会いに恵まれ、神戸の勝海舟塾の塾頭となり、西洋式航海術を修業している。 やがて、三十二歳の時には中岡慎太郎らと薩長連合を成功させたり、高杉晋作と共にユニオン号で海峡戦に参加したりして討幕運動に専念している。
この年の一月二十三日には寺田屋で襲撃を受け、晋作からもらったピストルで幕吏を相手に応戦している。 そして、三十三歳の時には「船中八策」や「新政府綱領八策」を発表して近代日本にあるべき姿を説いている。
この頃、『万国公法』をよく読んでいたといわれている。それに、脱藩罪を許され土佐海援隊長になったり、暗殺される直前に越前福井へ行き三岡八郎(由利公正)の財政策を聞いているように、外国との貿易を積極的に考えた時期でもある。
さらに、志をもつ青年たちを集めた海援隊を率い、海の王者たらんと活躍して「世界の海援隊」にまで発達させたいとの大きな夢を見ていた。 また、徳川幕府三百年ののれんおろしである大政奉還の根回しで、家老の後藤象二郎と共に大活躍している。

このような三段跳び的な龍馬の行動振りを見ていくと、当時は島国根性をもつ日本人が多かった時代だけに、龍馬の型破りスケールの大きさに圧倒されてしまうのである。 晩年に自然堂という雅号で次から次へと維新の大偉業を成し遂げていったのである。
作家・司馬遼太郎は、大長編の『龍馬がゆく』を書いているが、龍馬の行動について、明治維新の奇蹟としか言いようがないと結論づけている。 それに隊長の龍馬は一般の隊士たちと三両二分と同じ基本給であり、中国少年に対しても春木和助という日本名を与えているように心やさしい人間だった。
そこに、たまらない魅力を感じて多くの青年達が亀山社中や土佐海援隊に参加して活躍するのであった。 龍馬のやさしさは、乙女姉さんら女性に対しても思いやりのある手紙を書いていることでも理解できる。

坂本龍馬は死んでからも明治初期に『汗血千里駒』描写されているように自由民権運動のシンボル的存在として出現したり、大正デモクラシーの時代にアウトサイダーの浪人・龍馬が登場したり、七変化して時代の折り目節目に登場しているが、現代では永遠の青年のシンボルとして生き続けているし、高知県の代表的人物として、いまや高知県の観光のシンボルとしてもなくてはならない存在になってしまった。
毎年、秋には龍馬まつりが行われたり、龍馬誕生祭が行われているのである。



つづく ・・・
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彌太郎と龍馬
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